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松山地方裁判所西条支部 昭和48年(わ)107号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

〔Ⅰ〕 本件公訴事実の要旨

被告人は、昭和四七年一二月一〇日施行の衆議院議員総選挙に際し、愛媛県第二区から立候補した秋川保親の選挙運動者であるが、同候補者に投票を得させる目的で、(別紙)一覧表記載のとおり、同月三日および同月六日の両日、同選挙区の選挙人である同県新居浜市○○×、×××A方ほか二〇戸を戸別に訪問して同候補者のため投票を依頼し、そのうちGほか九名に対し、同候補者の「わたしの決意」と題する政見記事および同候補者の氏名、略歴、写真などを掲載表示した選挙運動文書合計一〇枚を手渡すなどして頒布し、もって戸別訪問をするとともに法定外選挙運動文書を頒布したものである。

〔Ⅱ〕 弁護人らの主張

一、弁護人の主張

(一)  本件公訴の提起は公訴権の濫用であって棄却されるべきである。

(1)  公訴権の濫用とは公訴権の不適正な行使の全てを意味する。そもそも検察官に刑事訴訟法第二四八条による公訴権の行使をその裁量に一任したのは真に罰せられるべき者を罰するためであってその行使が憲法に違反し、若しくは著るしく不起訴基準を逸脱し他の目的のために公訴提起するなどして濫用にわたる場合は刑事訴訟法第一条第二四八条に反し、結局刑事訴訟法第三三八条第四号により公訴棄却されるべきこととなる。

即ち、少年法第四五条第五号にも見られるとおり、「公訴を提起するに足りる犯罪の嫌疑のないとき」ないし「起訴猶予すべき事情の存在するとき」は公訴を提起すべきでないのである。刑事訴訟法第二四八条の起訴便宜主義は検察官の任意且つ恩恵的な処分ではなく、検察官に不起訴処分をする権限と義務を課した規定である。云い換えれば、「公訴を許容するに足りる客観的な犯罪の嫌疑」「起訴猶予すべき情状の不存在」は訴訟条件の一であるといわなければならない。

(2)  昭和四五年の総選挙では犯罪白書によると買収事犯は一五、八三九名で戸別訪問事犯は一、一四〇名である。買収事犯で公判請求したのは二、四四九名で起訴率四九・八パーセント、戸別訪問事犯で公判請求二〇名略式命令七二七名で起訴率は六五・六パーセントである。

又、昭和四七年一二月施行の総選挙では犯罪白書によれば総数二万三、八五〇件であり、その内買収事犯は二万二、一三三件であって、内一万一、七三八件(五三パーセント)が起訴猶予処分になっており、戸別訪問については総数六六四件であって、内二〇件が公判請求をされ、三二五件が略式請求で三一二件(四七パーセント)が起訴猶予処分になっているが、本件は正に数少い二〇件の内の一件に数えられているのである。

買収等の実質犯を防止するために立法したとされる戸別訪問事犯の起訴率が高く買収事犯の不起訴率が高いということは戸別訪問事犯の規定が革新政党の弾圧法規として機能していることを物語る。

(二)  戸別訪問罪が憲法違反のものであることは一律禁止の形態から云って明らかであり、判例の中でも限定解釈論をとって僅かにその合憲性を認めているのが多いのであるが、既に選挙法改正審議会の意向でも戸別訪問罪は解放すべきであるとの意見もあり、世界の先進国も又既にそのように取扱われているのである。

(三)  本件は又、可罰的違法性を欠く。可罰的違法性論は現代の複雑にして流動的な社会生活の実態に鑑み、一応構成要件に該当し、且つ法定の違法阻却事由のどれにもあてはまらないと認められる行為のうちで、その違法性、可罰性について疑いを生じその可罰性を否定することを相当とする行為の事例が生じた場合、法の形式的規定を厳格に貫徹し、その刑事責任を問うことは社会生活上の実態に背き正義と矛盾する結果を招来する。このような事例の具体的救済を図るために実質的違法性に関する考慮を刑事責任の否定という方向でとり入れるべきであるとされ、ある行為について実質的違法性が可罰的な程度に至らぬ程微弱なことを理由に、違法性の阻却ではなく、行為の構成要件該当性そのものを否定する理論である。

本件の被告人の行為は転宅あいさつを主とするあいさつ行為であり、何れも一分程度のもので公職選挙法が禁止の理由とする迷惑や実質犯を伴っては勿論いないのであって、到底可罰性を肯定する程度の内容を有していない。

二、被告人の主張

(一)  被告人は昭和四七年一一月二一日転宅し、一二月三日は近所のあいさつ廻りをしていたものであって、転宅に伴うあいさつ廻りは社会通念として至極常識的なものである。

しかも、被告人は昭和四六年四月日本共産党公認のもとで新居浜市議会議員選挙に立候補し当選したが、支持してくれた地元の人々にはひとかたならぬ御世話になり、その後の議員活動についても日常的に配慮を頂いており、転宅のあいさつ廻りは欠かすことはできない。

又、老人医療費の無料化の為に市当局や市議会、県当局に対する住民の署名運動、その報告活動、通学道路の改修、光化学スモッグ対策、水銀汚染魚問題など、地元の人達を訪問し、相談して、その解決の為に努力することは日常的な被告人の議員活動である。

本件公訴の提起はこのような被告人の議員としての日常的な活動を封殺し、日本共産党の活動を妨害する意図に出たものであって公訴権の濫用であり、棄却されるべきである。

(二)  選挙は人間の歴史の中で民主々義の発揚として代議制度を成立させるための重要な行為である。

元来、国を治め、その中の一つの地域を治めていくためには国民の一人々々がこれに参画する権利をもっている。

戦前の日本は絶対主義的天皇制のもとで日本の国民は無権利の状態におかれて来た。選挙権についても年令や財産、納税額においてきびしく制限され、被選挙権も同様であった。

終戦後、大きな犠牲の上に主権在民と民主々義が確立し、選挙権被選挙権も拡大して来たが徹底していない。選挙運動の自由がきびしく制限されている。

そもそも国民は主権者として常時、言論、集会、結社の自由の諸権利を行使することによって自らの政治的意志を表明し伝達し討論する立場にあるが、政治を託する代表者を選挙する過程では政治的活動の自由が何よりも重要である。従って、ヨーロッパやアメリカでは投票日の選挙運動の禁止などを別とすれば市民の選挙運動に対して何らの規制をも加えていない。

然るに、我国では戦前より事前運動は一切禁止されており、立候補者の運動の方法についても極めてわずらわしい制約がある。いわんや普通の国民は文書図画の頒布、掲示、演説会、街頭演説など殆んどできないことになっている。又、立候補者も国民一般も戸別訪問は一切禁止されている。

これは選挙の自由と公正の為に必要であると説かれるが、つぎのような矛盾がある。

即ち、第一にそれらが現職候補に有利に、新人候補者に不利に、又大政党に有利に、中小政党に不利に働き、政界の固定と沈滞とを生む。第二に議会主義に欠かすことのできない言論、文書による選挙民への説得活動が制限されすぎ、憲法の基本的原理である議会中心主義にもとり、言論、出版、集会などの自由という基本的人権を損うおそれが強い。第三に、選挙を候補者本位の行事にしそれを役所が運営管理し、選挙民が選挙の場に登場してくることを不可能なまでに制限しているのである。

(三)  本件起訴は、その捜査段階で警察当局では今度の選挙は甲野をあげてやるといっていた、又調書においても検察当局の不利なものは証拠として提出しないという立場をとっている。

これは日本共産党に対する偏見であり、同党員である被告人を不当に処分しようとする意図から発したもので、本件公訴の提起は将に濫用であるといわなければならない。

〔Ⅲ〕 当裁判所の判断

(甲)  公訴権の濫用について

一、刑事訴訟法第二四七条は公訴提起の権能を検察官に独占させ、且つ同法第二四八条の起訴便宜主義と相まって、公訴権の行使を検察官同一体の原則の下にある検察官の裁量にゆだね、全体的統一的処理基準に基づく適正公平な処理を期待しており、従って検察官の起訴不起訴の裁量処分が充分に尊重されるべきことはいうをまたない。然しながら、法は検察官による権能の行使が恣意に流れることをおそれ、その抑制手段として起訴を相当とする事案についてこれをしなかった場合については、検察審査会制度、準起訴手続制度を設けているが、反面起訴すべきでない事案であるのにかかわらずこれを起訴した場合の救済ないし抑制措置については何らの規定も設けていない。然し、起訴独占主義、起訴便宜主義の右法意に照らすとき、憲法の平等の原則に反し刑事裁判手続を政治的に利用すべく、罪質、態様、情状等からみて明らかに起訴猶予を相当とすべき事案であるのにこれを起訴した場合のように、検察官の起訴処分が裁量権の範囲を著しく逸脱し違法の程度にまで達すれば、これを放置することなく司法審査の対象とし、当該公訴の提起によって開始された訴訟手続内においてその是正が図られるべきであり、起訴の違法であることが適正な訴訟手続に従って立証されるならば、これに相応する終局裁判を行うのは裁判所の権能でもあり、また責務でもあるといわなければならない。

二、いま本件についてこれを看るに、被告人の当公判廷における供述によれば、被告人は昭和三五年九月日本共産党に入党し、昭和四六年五月から現在に至るまで新居浜市会議員であることが認められるところ、証人穂積元久、同尾上章の当公判廷における各供述によれば、昭和四七年一二月当時新居浜警察署警察官であった穂積元久、尾上章は同年同月一〇日施行の衆議院議員総選挙に際し新居浜市中村地区において戸別訪問があったとの通報により指令を受け、外二名位と同地区に赴き、被告人ら二人連れが各戸を一〇軒位廻っているのを現認し戸別訪問事犯として捜査したことが端緒であることが認められ、これに本件事案が合計二一軒に及ぶ戸別訪問をした事案であることと、被告人が捜査官憲に対して黙秘のままでいたこと(被告人の当公判廷における供述によってこれを認める)から、略式請求をするについての同意が得られる期待がなく、本件起訴に及んだものであることを考え、又従前の戸別訪問ないし法定外文書頒布事案についての検察官の起訴不起訴の取扱いを併せ考慮すると、本件起訴があながち、事案が不起訴を相当とする程の軽微なものであるに不拘、被告人を殊更共産党員であるという理由のみから不当にこれを弾圧する意図のもとに公判請求されたものと見ることはできない。

よって、弁護人らの公訴権濫用の主張はこれを採用することができない。

(乙)  選挙制度について

第一、一、主権は国民に存する。国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。この民主々義の理念は人類普遍の原理であり(憲法前文)、選挙は右国政を担当する代表者を選出する国民固有の権利である(憲法第一五条第一項)。即ち、選挙は主要な公務員、殊に国権の最高機関たる国会の構成員を決定し、ひいては内閣の構成及び政策にも影響を及ぼすものとして極めて重大な意義をもった国民の行為である。だから、民主々義国家では国民に対してこれが選出決定するに足る高い判断能力をもっていることを前提とし、且つこれをふだんに要求する。即ち、右の民主々義国家は常に合理的な判断能力をもった理性的人間を予定しているといえる。この理性的人間の合理的な判断は、まず何よりも他からの掣肘を受けない自由な精神より生ずる。従って、まず選挙は国民の自由な選択によって行われる必要がある。この選択は国民の夫々が決定すべき判断作用の一である。そこで、価値判断はこれをするについてその知識資料を得ていなければならない。右知識資料が充分に与えられていないところには充分な選択(合理的な価値判断)は出来ないであろう。而して、その資料は情報の獲得によって得られるものである。従って又、右は選ぶ者の側にたって観たのであるが、議員たらんとする者及びこれを支持する者はその当選を得る為この情報を提供する立場にあり、だからこの選ばれる側の立場からも選挙運動をなすことの自由は極めて重要である。ここにおいて、自由は他者との情報意見の交換手段たる表現の自由、言論の自由、出版の自由(憲法第二一条)に結びつくのである。選挙においては選ばれる者の政見、人格識見、経歴、手腕等につき、又その所属する政党の政策等の充分な知識資料に基づく理性的人間の自由な判断によって選出される。これが理想である。

公職選挙法第一条も「選挙が選挙人の自由に表明せる意思によって行われることを確保し、もって民主政治の健全な発達を期することを目的とする」と規定し、まず自由の理念を掲げる。ついで「公明且つ適正に行われることを確保し」と規定し公明、適正の理念を掲げる。従って、この公明、適正とは右選挙の自由を前提としてこれを実現する保障として機能する理念と考えられる。

即ち、何人を選ぶかということは選挙人の自由な表明によってなされるが、必然選挙は複数の立候補者と多数の選挙人を予定する。しかも、多数の選挙人の為す夫々の誰を選ぶかという価値判断は多様であり得る。自然科学上の真理は仮説、実験法則の樹立という方法論によって事実が真実であるかどうかは検証され得る。社会科学上の事実が真実であるかどうかも本証可能性、反証可能性を検討するウエーバーやポパーの方法論がある。又、価値体系の学の分野では法解釈学のような、又聖書の解釈のような解釈論的方法がある(例えば、我妻栄著「民法総則」、峯村光郎著「法哲学」など参照)。然し、価値判断の世界では人間の思惟の所産として人夫々のもつ価値意識は多様である。しかも、何れの価値が唯一絶対に正しいものとして他にこれを強要することはできない(価値相対主義。例えば田中耕太郎訳ラードブルッフ著作集「法哲学」など参照)。僅かに、全ての者が人間であることから、人間性に立脚した上での価値が長期間に亘って他にその正当性を説得しうるであろう。それはとも角、価値の多様性を前提として価値相対主義の下にこれを平等に取扱いつつこれを一つの普遍的意思に高める技術の一つが選挙であり、代議制である。そこに、普通選挙、平等選挙だとか、直接選挙だとか選挙の本質より来る幾つかの内在的原理がある。しかも選挙は国民の国政に参加する重要な国家的行為である(参政権)。一の国家的行事であれば、選挙人夫々の自由な意見表明が充分に反映されるよう公正で隠しだてがなく、正義に適うものであること、即ち、公明且つ適正の理念がうたわれるのは当然なのである。云い換えれば、公明且つ適正の理念は選挙が選挙人夫々の自由な意見表明によって行われるべきであることを前提としつつ、これが自由を保障する技術理念ということができる。選挙違反の実質犯とされる買収、利益誘導、選挙妨害、不正投票等がいずれも右の理念に反するものであることは疑いがない。

二、多数決原理は中世ヨーロッパにおいて永年に亘る宗教戦争によって、武力による決着が血と犠牲と混乱以外の何らの解決をももたらさないことを悟った人間の英知から生れたとされる。多数決原理は価値の同時存在を是認する相対主義的価値観に基づき、多数者はつねに少数者の意見を尊重し、現在の少数意見が将来の多数意見たりうる可能性を認めているのである。

これが現実に機能する為には、多数決の原理的本質をこれに参加する者全員が認識しその運用を誤らないようにすることである。そして、対話、討論の成り立つところでなければその充分な機能は果しえない。相互不信の状況下ではそれは活かされない。

つぎに、構成員の全部が言論の自由、集会の自由を保障されていることが必要である。異った意見をもつものがいかなる外部からの圧迫感ももたず、全く自由な立場で自己の意見を述べることができるということ、金力や、地位、肩書、義理人情等の非理性的要素によって屈折させられることなく、合理的意見が率直に述べられ、それが素直に聞き入れられること、このような言論の自由が保障されるとき、少数意見は尊重され、真理に対する謙虚さが討論の場にゆきわたる。このような民主々義的訓練のゆきとどいている人間社会においては、最初は唯一人の少数意見であっても、納得のいく道理ないし真理を語る限り、幾度かの討論の積み重ねによって多数派になることがつねにありうる。

更に多数決の原理は良識ある妥協によって与えられる。そこには、理性的人間像が前提となっているのである。

議会はかような多数決原理が支配する機関として、又その構成員を選出する選挙も同様の原理に基づいているといえるのである。

第二、一、(一) いま、選挙の理念について述べたが、人間は右のような論理的存在丈ではなく、心理的契機をも併せ持つ。人間の行動は必らずしも合理的行動につきない。人間を内心からつき動かして人間を行動させる力は人間のもつ欲求である。選挙の場合あらわれるのはさしあたり権力欲、金銭欲であろう。欲求それ自体は善でも悪でもない。欲求によってつき動かされる人間の行動をウエーバーは四つの範疇に分けている。即ち、行為者が自分の目的として追求することのできる状態がいくつかあってこれらの目的に軽重の比較が可能なとき、又他人や外界の事物の動きを観察し、その成行につれて予想をたてることができるとき、人間はその目的に基づきその予想を引用しながら手段として決定し利用するという目的合理的行為と呼ばれるもの、行為について宗教的、倫理的等の一定の基準が存し、その価値基準が選択を絶対無条件とし信念を貫徹しようとする行為であって価値合理的行為と呼ばれるもの、気分が行為を決する情緒的行為と呼ばれるもの、行為が慣習に従ってなされ、そこに目的手段の考量のない伝統的行為と呼ばれるものである。人間の現実の行為は右の欲求につき動かされながらこれらを混融した結合的なものである。

選挙においては、右一にみるような理性的人間を予想しているのであれば、選ばれる者は勿論であるが、殊更に選挙に対しては右の目的合理的行為、価値合理的行為が要請されることになるであろう。然し、右の目的合理的行為であっても、右金銭欲、権力欲などの欲求が目的価値ないしその比較考量の中に微妙にからみ、そこに買収、威迫等の契機がしのび込むこともあり得る。

(二) 而して、人間の行為にはつぎのような特質があるとされている。他人の行動、言葉の調子等を模倣して自己みずからのものとする自同化と呼ばれる行為や、個人の観念、感情、行動を他人のうえに投射する行為等である。又、政治現象の場における人間の行為は目標志向的な行為である。経済力、健康、名誉、愛情、技術、権力などの諸々の価値の実現や獲得をめざして人間は行動する。人間の行動はこれらの価値の期待のうえにたち、諸々の要求実現の度合が高まれば高まるほどこれに積極的になるであろう。しかし、いまその政治的価値ないしその実現過程に幻滅感をもつものは脱政治的として特色付けられる。所謂、政治的無関心と呼ばれる現象である。一般に、価値実現の可能性が減少したりなくなったりするときには欲求不満と呼ばれる精神状況がみられる。此の場合、その価値に替って他の価値が与えられ、これを追求することができるとき、その欲求不満は補償されたといわれる。人間のもつ補償行為のうち、その代替物が高度の道徳的承認を確保する場合昇華と呼ばれる。又、利害や感情的態度や、価値などが、他の社会的または物質的目的に転化することを転位という。

いずれにしても、このような場合は殊更、一般的に人間の行為には、云いのがれであろうと、理屈付けであろうと、他者との関り合いをもつものであれば、これを納得させる丈の合理化、倫理化の試みはさけられないところである(例えば原田鋼著「政治学原論」など参照)。

二、(一) 右一に述べた理念としての選挙は市民社会における理性的な人間を前提としている。然し、現代は大衆社会といわれている。科学技術の高度な発達が人間の夫々の分野での専門化と分業をもたらし、大量伝達手段をうみ出し、大量生産をうみ出し、社会の仕組みは高度に組織化されて来た。

従って、このような組織の中では人間個人個人の力は無力である。市民は大衆化したといわれる。大衆は選挙権等多くの政治的自由をもっているとはいえ、ひとたびその政治的自由をもって自己の意志を何らかの政策に反映せしめようとしても、個人としてはそれは殆んどできなくなった。だから、このような状況のもとでは政治知識皆無の者ばかりでなく、政治知識を一応身につけた人たちも政治に対する失望、個人的無力感から夫々「自分の穴のなかへ」閉じ込むことになる。政治的無関心層といわれる現象である。然し又、このように変貌した大衆的個人も依然として人間としての基本的人権を主張してやまない存在である。そこで、個人は自己の精神的物的欲求を充足実現させ政治的無関心による不安孤独を解消する為に種々の集団に入り込む。政治現象の場では政党であり大衆運動である。従って、選挙においても重点は個人本位よりもむしろ政党本位で選ばれるようになる。

さて、選挙は選ばれる者の側からする選挙運動は本来政党の政策を中心として展開され、テレビ、ラジオ、立会演説会等の媒体を通じて有権者の理性に訴えるのが建前であるが、右の大衆社会状況のもとではともすれば右の理性よりも感情ないし情緒に訴えようとする傾向になる。そして又、充分に自覚された理性的人間でない大衆はつねに暗示に被り易い状態にあるといえるのである。

そこから、後記コミュニケーションにおける送り手の側からする情報提供が一定の意図のもとに操作され宣伝される場合、大衆が容易に先入観や偏見を生み易いことは夙に社会心理学上指摘されているところである。右のような先入観や偏見が選挙における人間の理性的な意見の表明を阻害する要因ともなるのである(例えば、原田鋼「政治学原論」など参照。先入観、偏見などは、南博著「体系社会心理学」、福武直、日高六郎共著「社会学」、オルポート著「偏見の心理学」などを参照)。

(二) 日本の場合、右のような大衆社会状況の他、特有の人間関係が存在するとされている(例えば前掲「社会学」、依田新、築島謙三編「日本人の性格」、中根千枝著「タテ社会の人間関係」など参照)。

(1) まず、家をはじめとする集団内の人間関係が生活単位とする意識から抜け出していない。

(2) 所謂、先輩後輩等縦社会の人間関係が存在し、横の関係は弱い。

(3) 又、人々の行動が義理人情に動かされ易い特質がある。

(4) テンニースのいう共同社会の非合理的な行動原理が、もともと合理的であるべき利益社会の行動原理の中に入り込んでいるといわれる。しかも、夫々の集団ごとに多種多様の価値の体系が成立するといわれている。

(5) 従って、全ての集団や人間関係における行動の原理は時と所に応じて異る。

(6) 従って又、人々は首尾一貫しない多様な社会的期待を徹底的に内面化することは不可能となる。タテマエとホンネの使い分け、自己志向的な罪の文化ではなく、他者志向的な恥の文化であるといわれる。

(7) 科学的思考態度に弱く、従って便宜主義に陥いり易いとされている。

従って、右のような特質が充分自己の主体性を自覚した理性的人間として成長しない面があることは否めないであろう。

第三、以上のようにみてくると、選挙制度の理念と現実との乖離が大きいことが判るであろう。

民主々義は内在的支配と自律的服従の型だと云われるが、それは客体の側における服従意識が自律性の意識によって昇華され、意味的には全ての人が支配の主体としての自覚をもつところに成立するものであり、これが人間理性の根本要請と合致する所以であって、選挙とはかような関係を作り出す一の法技術なのである。主権は国民にある。とすれば、選ぶ者と選ばれる者の距離を埋めなければならないことになるであろう。

(丙)  丙戸別訪問(公職選挙法第一三八条第一項、第二三九条第三号)及び法定外文書頒布(同法第一四二条第一項第二四三条第三号)の制限禁止について

第一、まず、戸別訪問が禁止される理由は、これを許すとこのような一般公衆の目のとどかない場所でする投票依頼行為が買収利益誘導等の温床になると云われている。

試みに、(別紙)被告人の行動を検討してみても被告人は転宅のあいさつをし、これに秋川保親候補者の投票依頼の目的が随伴したとされる丈で、被告人に、これ以上有権者を買収しようという気配は認めることができない。これを要するに、戸別訪問自体に買収、利害誘導等の目的が必らずしも随伴するものということができない一の証左になろう。

確かに、買収は本来選挙人の自由な政治的意思形成に委せるべき選挙を人間のもつ金銭欲等につけ込みその自由な意思形成を阻害する要因として厳格に罰せられるべきであろう。右買収事犯について試みに我が公職選挙法を看るに、(1)事前買収罪として買収の客体である物品その他の財産上の利益ないし饗応接待につき、行為を、(イ)供与(ロ)約束(ハ)申込の三段階に分つ他、(ニ)交付罪を規定し(公職選挙法第二二一条第一項第一、第三、第五号)、又、(2)買収の相手方のする利益収受(要求)罪についても、行為を(イ)受供与(ロ)要求(ハ)申込の承諾(ニ)誘導に応じること(ホ)促すことに分ち(同法同条同項第四号)、更に他に(3)(イ)利害誘導罪(同法同条同項第二号)、(ロ)これらの周旋勧誘罪(同法同条同項第六号)、以上の買収事犯の加重類型(同法第二二二条第二二三条等)を設けている。こと買収事犯に関する限り法は用意周到である。

このうち、「供与」は相手方の所得に帰せしめる意思で金品等財産上の利益を現実に供与することを謂い、これを受ける側からすれば「受供与」であり、「約束」とは供与等をなし又は受けることについて供与側に立つ者の意思が相手方のそれと合致することを謂い、相手方のそれを「承諾」と謂い、「申込」とは相手方に供与等の意思表示をなすことを謂い、相手方が自己に供与等をなすよう求める意思表示をなすことを「要求」と謂い、「促す」とは自己又は自己と関係のある第三者に対する特殊直接の利害関係をあげ、これを自己又は右の第三者に利益の発生、変更、消滅させるよう要求することを謂う。従って、これら買収事犯における行為の発展段階をみるに、「申込」ないし「要求」「促す」ことがその端緒の形態であると考えられる。右端緒の行為段階はいずれも書面に限らず、口頭によっても差支えなく、又明示であると暗黙裡であるとを問わないとされているのである。従って、選挙の自由を侵害するおそれのある行為は幅広くとらえられているといえる。

従って又、買収等の「温床」とは右の端緒段階以前の段階を指すことになる。だとすれば、「温床」は戸別訪問に限らず、人の交流する他の場合、例えば企業組織や組合組織を通じての票集めにも考えようによってはそのようなことはあり得るのであり、むしろこの方が選挙民の死活に係る場合も生じうることを考えれば、その弊害の方が遙かに大きいであろう。ひとり戸別訪問自体を買収等不正行為の温床として処罰するのは片手落といわなければなるまい。

翻えって、戸別訪問の際に、仮りに訪問者ないし相手方の行為が現実に右「申込」「要求」「促すこと」等行為の端緒段階に至れば、これは選挙の自由を妨害する買収事犯として処罰の目的を達し得るのであり、殊更に右行為の端緒段階以前の行為自体を処罰する必要性は乏しいものと看ざるを得ない。尚、この点に関し取り締りの側からいう、戸別訪問をきっかけに買収事犯を発見する便利があるからという理由が採り得ないこと勿論である。

因みに、同じく選挙の自由を妨害するものとして公職選挙法は、暴力、威力、拐引、偽計詐術、威迫等の行為を禁止する選挙妨害罪(公職選挙法第二二五条)を規定している。

ということは、既に買収、申込、承諾、妨害等選挙の自由を妨害する実質犯を規定し、且つその担保の下に言論の場を与えていれば選挙制度としては充分と見ることもできるのであって、尚その上に戸別訪問等という形式犯を設けることは屋上屋を重ねる感は免れないであろう。右申込の段階以前の段階は後記パーソナルコミュニケーションそれ自体の場であり買収の予備でも未遂でもなく、更にはその温床でもなく、右パーソナルコミュニケーションの場それ自体を処罰の対象とすることは、却ってその機能を阻害するものである。選挙の指導理念たる他の公正とは右選挙の自由を如何に公平適正に行使させ実現させるかという技術原理とみられるのであって、右技術原理が却って選挙の自由を損うことは行きすぎであろう。

第二、つぎに、戸別訪問をすると情緒的な雰囲気や義理人情によって候補者の選択がなされることが指摘されている。

確かに国民が選挙人として選挙権を行使するに当り、候補者の所属政党、その政策、政見ないし人柄等に対して冷静且つ理性的な判断に基づいて政治的意思を決定すべきことは選挙が国民のもつ参政権として重要な行為であることからして当然であるが、前記(乙)欄第二項二(二)にみるとおり日本人のもつ性格が右義理人情に左右されうる現実的な弱味があることは否定できないであろう。

然し、公職選挙法が施行され今日に至るまで、普通平等選挙が幾度となく実施され、漸く選挙のもつ意義は国民一般の人々に意識され浸透して来たとみられるところであり、殊に大都市地域の選挙においてはそのような現象をみることは困難になったとされている。

問題は、右義理人情に左右されるおそれがあるものとして戸別訪問罪を設ける必要性が尚存するかにある。後で再説する。

第三、つぎに、候補者にとって戸別訪問や法定外文書頒布は極めて手数のかかる方法であり費用と労力を使い無限の競争を招来するということが理由の一にあげられている。

然し、右戸別訪問や法定外文書の頒布は候補者にとって唯一絶対の選挙運動ではなく、立会演説会、テレビ、ラジオの政見放送等数多くある選挙運動の一であり、又当選したいという候補者にとってみればさほど煩をいとわないであろうし、候補者の側からしても戸別訪問や文書の頒布はその意思伝達の直接手近な手段なのである。しかし、もっと重要なことは選挙の主体は選ばれる候補者側にあるのではなく、国民一般である。主権は国民の側にあるのであれば、選ばれる者の都合ではなく、主権者の側から考えられる禁止の理由を探らなければなるまい。

第四、そこで、戸別訪問は訪問を受ける側の生活の平穏を損うとする理由がある。

居宅や勤務先に頻繁に訪問を受けることが家事、業務その他を妨害し私生活の平穏を害するということはその消極面である。然し、右消極面はいわば楯の一面であって、これにのみ眼を奪われることは却って国民をして選挙に対する関心を失わせるものである(現に、(別紙)被告人の行動三でみるとおり、訪問を受けた側の人々は戸別訪問罪ないし法定外文書頒布罪の対象とはならない人々であり、しかも現に主権者であるに拘らず、おどおどした態度での証言であって、全てを明らかにしてくれない。このことは又、却って戸別訪問罪及び法定外文書頒布罪という形式犯が存在することの弊害ともみられ得よう)。

楯のもう一面、即ち戸別訪問の積極面を考えるとき、選挙は国民がこれを通じて選良を選ぶ参政権であって、候補者の所属政党、政策、識見、人柄等について冷静且つ理性的な判断をし自由に政治的意思決定をするについては、まずその前提として正確な知識と資料を得なければならない筈であり、戸別訪問は最も簡明な日常的な会話方式であることに着目すれば、却って積極的に訪問者に対し、その機会に質疑し、討論、意見の開陳等を試み、右の知識と資料を得ようと試みる者もいるであろう。要は受け取り手側の態度如何に係るのであり、積極消極の両面をもつのである。そして、その消極面はせいぜい説得などを好まない選挙人が自らの拒絶によって訪問者が退去するまでの僅かな時間応接に多少の迷惑を蒙るといった程度のものである。

第五、更に、現行公職選挙法は、個々面接、電話による依頼、テレビ、ラジオの政見放送、立会演説会等種々の投票依頼の方法を認めており、この多様な政治的言論内容の表現手段方法の一を制限するに止まるものと云われる。

(一) 然し、テレビ、ラジオでの政見放送は候補者の側からする一方的な所属政党の政策、政見、人柄等の意思伝達手段である。

(二)(1) 人間は社会的動物と云われる。人間は当然に他の人間を予定するものである。そこで、人間の意志と感情と知識を他に伝える手段はコミュニケーションと呼ばれる。意思伝達手段は当然送り手と受け手を前提とする。送り手は一定の意図で受け手に話しかけ、受け手は送り手から何らかの知識を得ようという要求を持っている。個々的な意思伝達手段(パーソナル・コミュニケーションと呼ばれている)では送り手の意図と受け手の要求は互いに知られているか、少くとも互いにそれを知ろうとする努力が払われる。つぎに、送り手は意思伝達手段の内容を表現して受け手に伝えようとする。受け手はその伝えられる内容に対して反応を示す(じっと聞き入るとか、あいづちを打つとか、いぶかしそうな顔付きをしたり、質問したりなど)、その反応をみた送り手はそれに応じて自分の話し方や内容を調節する(フィードバックと呼ばれる)。ここでは送り手と受け手の間に表現と反応を結びつける理解と調節の交互作用が生まれてくる。つぎに、送り手は受け手にどんな効果を与えたかということについて期待を持つ。その期待は必らずしも受け手に実際に与えた効果とは一致しない。そこで、送り手は受け手が話を聞き終ってから、どんな事を云ったりするかを確かめることで期待した効果と実現された効果との一致を測定する。

一般に社会心理学上承認されたパーソナル・コミュニケーションの伝達過程は右のような図式である。この場合、送り手と受け手の間にはだいたい交流が保たれて、おのおのの立場からする調節が可能であるとされる。

(2) ところで現代は大量媒体(所謂マス・メディアと呼ばれる。この方法により意思の伝達が行われることがマス・コミュニケーションである)の時代といわれる。その本質的機能は一つの準環境を作りあげるものとされている(リップマン)。人間の行動は直接的な環境的条件によって大きく影響するが、尚それ以外に遙かに間接的な経験(準環境)に頼る他方法がない。そこに大量媒体のもつ役割の大きいことを知る。

ところで、準環境を形成するマス・コミュニケーションの流れはパーソナル・コミュニケーションにおける会話が双方からとりかわされるのと異り一方的である。マス・コミュニケーションの提供するものを受けとるものは、それを確かめ、調査し、反問することはできない。

(3) もとより、右パーソナル・コミュニケーションとマス・コミュニケーションとの間には、クラブでの旅行報告、教会メンバーに配布される教会ニュース等中間的特殊関心のコミュニケーションが存在するが、右コミュニケーションの形態、規模が大きくなるにつれて、(イ)一人の送り手毎の受け手の数が次第に多くなる、(ロ)送られる表現(メッセージ)の内容が次第に私的特殊専門的でなくなり、公的非専門的になる、(ハ)コミュニケーションの内容が次第に多くの制約、倫理規定その他の考慮のもとにおかれてくる、(ニ)受け手と送り手の間の交渉はいよいよ間接的になり距りを生じてくるとされている(例えば、前掲「社会学」「体系社会心理学」など参照)。

このようにみてくると、さきにあげた個別的面接、テレビ、ラジオの政見放送、立会演説会などを一律に同様の表現効果をもつと考えることはできないであろう。

(三) 選挙運動においては立候補者側としては選挙民に政治に関する知識と評価の情報を提供しなければならない。それにもまして選挙民としては投票意思を形成するにつき必要な情報を得ること、選挙の対象についての知識をもちこれを評価しうること、選挙民自身の政治的立場を明確にして自己の主張を形成し、その影響力をもたせるための討論などは、選挙権を行使するについて是非共必要な事柄である。もとより選挙運動でもたらされた情報は党派的であろうけれども、大衆社会状況の今日、政治は本来党派的エネルギーで動かされるものであり、選挙運動は党派の争いであり、選挙は党派の選択となるのが通常であろうが、このことはその情報の価値を損うものではない。無責任ないしは悪意にみちた文書や口頭での誹謗、嘘や誇張などの情報操作は当然ありうるが、これは対立する夫々の候補者の批判、診断によって選挙民に疑問を呈示し、討議によってそれを是正する機会をもつことができる。

戸別訪問は所謂パーソナル・コミュニケーションの一として選挙民の生活の場で候補者と選挙運動員、選挙民同志の個々の対話を通して判断の材料を提供し(そして、文書は右対話の一の手段として用いられるのである)、これを検討し相互に批判する機会を与えるものであって、ラジオ、テレビの政見放送がいわば機械的に、立会演説会や個人演説会が制度的ないし事実的に立候補者側の一方的情報の提供にのみ流れ、選挙民は唯これの受け身的な立場にのみあり、意見交換の場は少しもないことを考えれば、他の政治的表現手段の方法にもまして戸別訪問及びその対話の手段としての文書の頒布は重視せられて然るべきものであるといえよう。

(丁)  公共の福祉との関係

以上みてきたとおり、選挙運動における戸別訪問及び法定外文書の頒布は、そのような手段形式でする立候補者側と選ぶ側の対話の場であり、そこに意見の表明、質疑、説得等が行われるのであれば、将にこれは言論、出版その他一切の表現の自由という最も重要な基本的人権の一に数えられるものである(憲法第二一条第一項)。

ところで、基本的人権は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならず、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ(憲法第一二条)。又、すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で最大の尊重を必要とする(憲法第一三条)。

ということは、まず基本的人権は殊に表現の自由等のように他に現れる基本的人権はつねに他人の人権との関係で考えなければならない。人夫々の物心両面の条件には色々の違いがあり、その間に意見や利益の違いがあって、或る個人の人権の主張は他人の人権と矛盾し衝突する場合がある。そこで、社会生活が維持されるためにはこれらの人権相互の矛盾衝突を公平平等に調整する原理が必要である。このことは、憲法が目的とする自由平等平和を民主的に実現する為にも必要である。これが公共の福祉であり、従ってそれは基本的人権そのものの本質に内在する原理であるといえる(憲法第一二条はこのことを常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふといっている)。若し、右公共の福祉が漠然として人権に超越的な外在的なものと考えられるならば、右公共の福祉の名において如何なる制限も可能となろう。従って又、言論等表現の自由といえども、これが濫用に当る場合は、それは最早右表現の自由と呼びえず、これを制限しうることは勿論であるが、いやしくも言論という名に値する自由である限りこれを制限するにはそれなりの内在的に合理的な理由が当然必要であろう(憲法第一三条はこのことを公共の福祉に反しない限り立法その他の国政上で最大の尊重を必要とするといっている)。

そもそも、戸別訪問、ないしは文書の頒布は選挙の場を離れてみれば何人も自由にこれを為しうる立場にあろう。選挙という領域においてこれを制限することを必要とする右内在的合理的理由を検討するに、前記(丙)欄第一項第三項第四項(但し、その消極面)にみるとおり、不正行為温床論、繁煩論、平穏阻害論はいずれも根拠がないことになろう。僅かに、同欄第二項のとおり義理人情論がその根拠となりうる。義理人情論はしかし戸別訪問にのみ随伴するものではない。地方自治法で定める直接請求のための署名集めなどは戸別訪問は許される。しかも、義理人情の混入するおそれがあるという点は彼此異るところはない。しかも尚、右直接請求の場合、戸別訪問は不可欠の手段なのである。然るに尚、右義理人情論を以て戸別訪問ないし法定外文書頒布につきこれを処罰しうるであろうか。

現代は価値の多様化の時代といわれる。然し、一の価値は絶対的なものとしてこれを他に強要することはできまい。そこに、価値相対主義に基づいた説得の論理が要請されるのであり、先にみたように多数決原理が正常に機能される必要があり、又、その前提として正確な知識と情報を獲得するパーソナルコミュニケーションの一の意義がある。右戸別訪問及び文書頒布の選挙における利点も同欄第四項(但し、その積極面)第五項のとおりあるのであって、この効用の方が遙かに大きい。けだし、選挙は国民のもつ参政権として極めて重要な行為であり、候補者につきその所属政党、政策、政見、ないし人柄等について冷静且つ理性的な判断に基づいて政治的意思を決定すべきであることは繰り返して述べて来たところであり、そのためには又、前記(乙)欄第二項二のとおり今日の大衆社会状況の下では大衆は概して被暗示状態におかれているものであれば、その一方よりの情報のみならず、受け手側の対話により正確に情報を入手し知識を得、対話討論を通じて人間の理性を回復し、夫々のもつ先入観、偏見等非合理的側面を排す必要が殊更に大きいからであり、むしろ義理人情に流され易いからこれを禁止するというのではなく、却って多数決原理とは価値相対主義の下に少数者の意見も尊重さるべき、従って選挙もそうした原理の下に立ち、理性の命ずるところに従って冷静に判断すべきことを国民自身の啓蒙にまつことこそ肝要であるからである。それ故にこそ国民の側からする不断の努力が必要なのである。

以上のようにみてくると、戸別訪問、文書の頒布を殊更に処罰する合理的な根拠は格別見出し難いのである。

(戊)  結論

以上みてきたとおり、戸別訪問及び法定外文書頒布の禁止を規定した公職選挙法第一三八第第二三九条、同法第一四二条第一項第二四三条第三号は、本来基本的人権たる言論の自由に含まれる政治的自由を制限禁止するものであって、合理的理由が充分見当らないので憲法第二一条第一項の規定に違反し無効という他はない。

よって、被告人の(別紙)一覧表の戸別訪問及び文書頒布の各行為は罪とならず、被告人は無罪であるから、刑事訴訟法第三三六条に従い主文のとおり判決する。

(裁判官 宗哲朗)

〈以下省略〉

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